佐喜浜郷土史

 で、その僕の生まれ故郷は、何もないわけではない*1のだけれど...伝承というか、むかし話というか、不思議といろいろありました。その中のいくつかをこの場で借りて、ショートバージョンにて紹介したいと思います。さすがに、記憶もあやふやなので、『佐喜浜郷土史』(松野仁・著、佐喜浜郷土史編集委員会発行、1977)を参考にさせていただきます。

『お由里哀話』
お由里さんは、代々関所を預かる木下家の娘として岩佐に生また可憐な佳人だったという。やがて佐喜浜の庄屋、寺田家に輿入れし、子宝にも恵まれた。しかし、ちょっとしたことから姑さんとうまくいかなくなり、岩佐へと送り返された。夫と子どもへ募る思いがあれどかなわずに病になり、1857年12月23日、粉雪ちらつく寒い日に亡くなった。
 やがて、寺田家周辺では、お由里さんの姿を見かけたという噂が流れはじめる。ついには、雨の日に、夫の友人がお由里さんの霊に出くわし、妨げとなる寺田家の門のお札をはがすように頼まれる。
 恐れた友人は、そのお札を外すが、さすがに寺田家にも戸締まりをしっかりするよう促したが...。
 お由里さんのお位牌は寺田家にあったが、お墓自体は岩佐の地にあった。1943年、木下を名乗る人物が、役人らの案内のもと、木下家のお墓を東京に移そうとしたが、嵐となってあきらめた。その地を離れたくないというお由里さんの想いの現れとも言われるが、以降、お由里さんのお墓に触れると雨となる、と語り継がれるようになった*2

補足:松野仁(故人)氏は、「松野のおんちゃん」と呼ばれ、いろんな物語に通じていた。このおんちゃん、毎年2月11日(なぜ、この日なのかは不明)になると、岩佐の関所跡などを訪れるハイキングを町民に呼びかけては、僕らはこぞって参加していた。それ以前のことになるが、佐喜浜郷土史には以下のような記述がある。
「過ぐる昭和46年2月11日、岩佐を訪れた一行の中に、寺田家の二人の老婦人が交じっていた。嶮しい山坂をあえぎながら携えてきた榊の枝と、瓶に詰めた水をお由里さんの墓前に供えてぬかずいていた。聞けばそのお水はお由里さんが病の床で、呑みたい呑みたいと言い続けて死んだ寺田の井戸の水であった。」

 岩佐の関所が位置する、野根山街道は、かつては重要なルートであったために残る逸話も多い。その岩佐の関所近くには、「岩佐の清水」と呼ばれる名水があって、これがオイシイ!それでも、寺田家の井戸の水をもとめたお由里さんの想い、幾ばくかと。
 この意外に(?)嶮しい山道を登る楽しみは、この水を呑むことと、「キュン」と肺をくすぐる新鮮な空気を吸うことでしたね。あと、佐喜浜はなかなか雪が降らないもんで、残雪をキュっキュっと踏みしめることも楽しかったかな?もちろん、お由里さんの墓参りもしてました。今もやってるのかな、この恒例のハイキング。

『鍛冶ケ嬶(かじがかか)の話』

 むか〜し、一人の飛脚が野根山街道を駆けていた。需要な交通路とは言えそこは山道、けものがうろつく危険な街道でもあった。
 飛脚は装束峠(しょうぞくとうげ)あたりで女性が一人、産気づいて苦しんでいるところに出くわした。そのままでは夜になればオオカミにねらわれると考えた飛脚は、大きな杉の木*3に女性を押し上げ、木の上でなんとかして赤ちゃんをとりあげ、女性の介抱をもした。
 夜が更け、心配は的中してオオカミの一群の襲撃が始まった。腕利きの飛脚は木下から迫らんとするオオカミたちを切り捨てにかかる。オオカミたちは「こりゃたまらん、崎浜(佐喜浜)のかじやのかかを連れてこりゃならん」と*4退く。
 飛脚は油断をとくことはなく、強敵の出現を感じ取る。おそいかかってきたひときわ大きな老オオカミは、なんと平鍋を頭にかぶるほどの知恵があったが、飛脚は刀の峰で鍋を叩きわり、返す刀で一撃を浴びせ、撃退に成功する。
 ようやく夜が明けて、飛脚は女性と赤ちゃんを茶店に預け、真相を知るために崎浜へと向かう。かじ屋の主人に「おばんはおるか」と訪ねると、昨晩怪我をして臥せっているという。飛脚は障子超しにのぞくとただものではない気配。近づいて耳をこよりでくすぐると、まるで獣のようにピクピクとさせた。これは獣に違いないと感じた飛脚は刀一閃、斬り殺した。
 夜が明けると、そこにはかじ屋の婆さんはなく、一頭の老オオカミが息絶えていた。おどろく主人に「老オオカミが婆さんを食い殺して化けていた」と説明した飛脚が床板をはがすと...そこには人やけものの骨だらけだったという。

補足:で、そのかじ屋の跡は、いまは竹やぶですね...たしか。

『観音山の豆狸(まめた)』

むか〜しの話になるが、根丸のおじやんと、浜のおじやんは幼なじみで仲がよかった。明け方に網をあげるとき、浜のおじやんは土手の松の木をゆすりながら大声で、根丸のおじやんに「船を出すぞう!」とよびかけていた。
 ところがその松の根元には、観音山から来た狸が巣をつくっていた。夜な夜な餌にありついてはようやく眠りにつこうとすれど、浜のおじやんのせいでおちおち眠れない。あるとき一計を案じた豆狸は、浜のおじやんの口まねをして根丸のおじやんに呼びかけた。えっちらおっちらおじやんが船でやってくると、浜のおじやんがぐーすか寝ている。頭に来た根丸のおじやんが怒るが、もちろんのこと浜のおじやんには理解できない。そんなことが続くと、幼なじみでもさすがに険悪になる。
 調子にのった豆狸は、「こりゃ、ひょっとしたら殴り合いのけんかでも観られるかも」と、またしても口まねをする。
 そこで根丸のおじやんが考える。「さっきは、二度と口もききとうもないいうた、浜のおじやんがすぐに呼びかけるかえ?」暗がりの中、目を凝らしても浜のおじやん宅に灯りはない。逆に松の木の根元には、青い灯-狸の目が光っている。「ははぁん」と合点した根丸のおじやん、「おじやんよう、ありゃ狸のしわざぜよ!わかいし(若い衆)を呼び集めて捕まえて、たぬき汁にせんかぁ!」
 これに豆狸はおどろき、もといた観音山にすっとんで逃げ帰ったとさ。
 
と・こ・ろ・で、佐喜浜では毎年秋祭りの折り、「俄(にわか)」と言われる大衆芸能がとり行われる。郡司正勝室戸市佐喜濱町 俄台本集成I』(佐藤恵理・編)によれば、俄とは「かつては、三都を中心に、日本の津々浦々の祭礼に行われていた」とのことだが、佐喜浜の場合は、「戦時物、地元の社会問題などが取り上げられており、風刺と批判を、その笑いの中に刺し通すといった背骨が貫かれており、これは他の土地の俄に比して冠たるものがある」とのことだ。
 僕が子どもの頃は、住みやすいだけではない、いろいろと...なんだかんだとあった、あの町だが、いまはその俄も含め、僕の一つ年上の学年あたりが中心に、もりあがりを見せているという。もっとも、その中心が小学校時代に児童会長*5だったT氏というのは、合点がいくのだけれど。小学校6年の時から僕は高知市内に引っ越してしまったけど、みんな元気かな?

*1:高砂親方のご実家もあります

*2:だからと言って、僕が雨男なのには関係ない...と思う。

*3:残念ながら後に倒壊。いまは横倒し状況ですが「お産杉」と呼ばれています

*4:なぜか人語をしゃべって or 飛脚がオオカミ語を理解して

*5:当時、末席ながら役員に名を連ねた私もかわいがっていただいておりました