さて、劇場公開が終わるまで、あんまり詳しいことを書くことを控えようと思ったけど、WEB上の感想が、どうも
「...」なので, 劇場版「機動戦士Zガンダム」に触れておきたい、っていうか、僕の視点の置き所(の二つ)を提示しておきたい。
そもそものテレビ・シリーズが放映された時、1970年生まれの僕らはバリバリの思春期で、「Zガンダム」の主人公、カミーユは、僕らの代弁者というか、少なくとも、すぐ傍にいてもおかしくないような、そんな青少年だったわけで。だからこそ、カミーユが「大人たち」が作った枠組みに不満をもったり、憤ったり、そんな反抗的な気持ちをもっていたわけで。そんなカミーユが、それこそ大人たちのはじめた(けど、自分だって関係ないよ、とは言って済まされない)権力闘争に、戦争に巻き込まれながらも...。
 ここがポイントかも。旧テレビ・シリーズでは、「カミーユの心の変遷」、といった趣きが強い。が、今回の劇場版では、「カミーユの心の成長の物語」という感がある。たとえば、後輩のカツに対する接し方。劇場版の方が、カミーユの言い方が柔らかいとうかトゲが無い。その上で、最終的にはファの想いを受け止めることができるようになるしね。
 もちろん、機会があるのなら、ぜひともテレビ版をご覧いただきたい。長いテレビ・シリーズは、じっくりと描かれているので、やはり重厚な味わいがある。たとえば、カミーユの心の変遷が、逆にまわりの大人たちの心にも変化をもたらしていったりとか。また、いかなる理由であれ、戦場で人を殺していってしまうという負い目が、いかにカミーユ自身の心を追いつめていくか、とか。
 そして、もう一つのポイント。それは、戦争がいかにクレイジーな状況か、という、当たり前っちゃあ、当たり前のことをあらためて表現されていること。たとえば、カミーユハマーンは、ひょっとしたら理解しあえるところがあったかもしれないのに、戦場じゃ語り合う暇などあるわけがない。そもそも、死んでしまったら、話すことすらできないわけで。
 言っておくが、この「Zガンダム」において、「解答」はない。これは他の作品にも言えることだけど。要は、作品から何を感じ、何を考え、それがどう、自分にとって、自分をとりまく社会に「つなげて」生きていくか、ってことだと思う。事実、この「Zガンダム」自体が、この「Zガンダム」自体を完結させてないでしょ?ラスト・シーンは、ひとつの戦闘が終わり、ほんの束の間の「平和」的な状況に過ぎない。その「平和」にはしゃぐ人もいれば、残務処理に没頭するブライト艦長もいる。そんなシーンの次に来るであろう状況は、自分たちのリーダーであるべきクワトロ・バジーナことシャア・アズナブルの消息不明、エマ、ヘンケンら、同僚たちの戦死という喪失感、はたまたアクシズという一大勢力が未だに残っているという現実...。そしてそもそも、グリプス戦役という状況を生み出してしまって原因は?
 結局のところ、戦争なんて、簡単には無くなりはしない。でも、あきらめるるもりもないけれど。こんな「バカ正直」な作品を作る「夢追い人」のような監督だっているこの世の中、そう捨てたもんじゃない、と僕は思いたい。