國府田マリ子と石原慎太郎 其の二

 次に(二)においてであるが、ここに重大な問題が潜んでいる。僕は(現実は、そうではないことをわかっていてあえて言うが)、メディアは、基本的には、反体制、反大勢のスタンスをとるべきだと思っている。
 なぜなら、三権、すなわち司法、行政、立法に負けずおとらず、メディアも権力であり、その権力たるメディアが政権よりになる、ということは、権力の集中を意味するところになるからだ。よく、「メディアには中立性が必要」などと言われ、とかく反体制的なメディアは叩かれるのだが、メディアは反体制側であってからこそ社会全体の中立性に寄与できると思う(ここらあたり強引な展開で申し訳ないです)。
 だから、番組内で特定の政治家を支持する発言をするとしても、その政治家がどういう人物なのかで意味合いも違ってくる。
 僕が、佐野元春が自身の番組『レイディオフィッシュ』で、ティアーズ・フォー・フィアーズの『Everybody wants to rule the world』を紹介するときの「『誰もが自分の都合の良いように世界を支配したがっている』、こんな歌をブッシュ大統領に聞いてもらいたいです!」と紹介したコメントをOKと思えたのは、ブッシュが外国の政治家だからではなくて、体制に「No」を叩き付ける視点をもっていたからだ。
 さて、國府田はリスナーに対して、メディアであるラジオそのものに対して、どのような責任感を持ち合わせているのか?それをあらためて、確認しておきたかったのだが...。これで『GM』が、日頃から政治に関してバンバン本音をぶつけあっていくような番組なら、その中で議論していけば良いのだが、このままでは「言いっぱなし」で終わってしまうことが恐ろしい。
 もっとも、今回の一件のみで、僕が國府田を全否定することにはならないが、それでも、たとえば彼女が自身で「環境ソング」と位置付ける『やさしくひかる』という歌に、説得力を感じなくなってしまった自分に気付き、一抹の寂しさを感じる今日このごろなのだが...。


旧日記『つらづら草』より転載