中国・瀋陽 日本領事館事件に寄せて

 あの生々しい映像を観ながら考えた。
 もしも僕が、最初に領事館に駆け込んだ男性のうちの1人だったら、あとに続きながらも拘束された女性や子どもを助けるために引き返しただろうか?...と。
 (だからと言って、あの男性たちが女性たちを見捨てたというわけではない。中に駆け込んで、事情を説明しようとしていたのかもしれないし、そこらあたりはこのコラムのポイントから外してます)
 日本領事館の門は、これみよがしにたえず1.2メートルほど開いていたと言う。それではまるで、「来るものは拒まず」と言っているようなものではないか。
 脱出を敢行した人たちにとって、その隙間が、闇の中で唯一輝く光に見えたことであろう。しかし、そこは、門扉ではなく、領事館スタッフ(日本人?それとも現地で雇われた中国人?)により塞がれた。
 あの映像によって世界の耳目が注がれたことにより、あの家族は第三国(韓国か?)に受け入れらる可能性が高くなったという。せめてもの救いだ(逆に、人知れず亡命に失敗して生命を落とす難民たちはどれほどいるのか?)。もっとも、あの家族たちはアメリカに行きたかった(隣国では報復の危険性が高いらしい)そうだが、アメリカは政治的亡命を受け入れても、飢餓難民は受け入れないそうだ。(そもそも飢餓というのは最低限の政治が行われていない、とも言えるのだが)
 話はもどって、僕は「いざ」という時に、「わが身」を護るやつなのか、誰かを助けようとするものなのか?でも、そんな追い込まれた自分を想像したくないからこそ、平和の世であってほしいと思う。
 ところで「我が国」の官房長官...食い下がる記者に「相手の政府を信じるのか?自分の国の政府を信じるのか?」ふっ、ご自分「の」政府にはよほどの自信がおありだようで...
 小泉首相がしゃかりきになって通そうとしている有事法制。そもそも「有事」って何?「有事」のとき、誰を、何を護ろうと言うの?瀋陽の事件ですべてを推し量ることはできないが、それでもこの国の権力の中枢に巣食う連中の考える「護るべきもの」に期待はしないほうが良さそうだ、とは思うね。
 そもそも国民の大部分が望んでいるのは、ぶっちゃけた話、景気回復だと思う。それをそっちのけで、支持母体のための行動かね?
 とは言え、こんな政府でも、「われわれ」が「選んだ」政府なんだよね。で、文句言ってる人の大部分が投票に行かなかったり、現状の追認しか行わないから哀しくなる。
 僕は時々シニカルに考える。多くの人たちは、投票用紙に向かった瞬間、健忘症になるのではないか、と。

旧日記『つらづら草』より転載